“起立性調節障害”経験談〜朝起きられない、立っていられない〜【後編】

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YUI
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【前編】では、中学3年生で起立性調節障害を発症し、周りの方に支えてもらいながら無事に高校に合格したというところまでお話しました。

 

【後編】は、高校生活から社会人になり症状が落ち着くまでの経験談を綴りたいと思います。

 

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【前編】のふりかえり

【前編】では、中学3年生で体に症状が出始めてから、受験までのことを綴りました。

まだ読まれていない方はこちら↓↓↓

“起立性調節障害”経験談〜朝起きられない、立っていられない〜【前編】
受験生である中学3年の年に起立性調節障害を発症し、様々な困難に直面しながらも、乗り越え治るまでの経験談【前編】

 

YUIの経験談

無事に高校に合格した私ですが、そこからは中学校生活以上に様々な壁が待ち受けていました。

その時その時で色んな工夫や対処をしてきましたので、お読みいただければと思います!

 

高校入学

中学校までは公立の学校で、徒歩通学をしていたのですが、私が入学した高校は私立で、当時住んでいた自宅とは違う市にあり、自転車→電車→徒歩で通わなくてはならない学校でした。

起立性調節障害という病気を抱えてまで、なぜこの学校に行きたかったかというと、その高校には保育コースがあったからです。

小学校低学年の物心ついた頃から、私には『幼稚園の先生になりたい!』という明確な夢があり、早くから保育を学びたかった私は、夢を叶えるために保育コースのある高校を選びました。

今思えば、無理のきかない体であったのに、夢を諦めることだけはしなかった当時の私の根性を褒めてあげたいです✨

長時間立っていられない体なのに、電車通学をしないといけない学校に通うということで、最初は両親もとても心配していました。

でも、幸い自宅から最寄りの駅は始発電車が出る駅で、座って通うことができました。

ただ、朝から走ったリ急いだりすると心臓がバクバクして気分が悪くなってしまうので、時間に余裕を持って自宅を出発し、自転車も駅の階段も歩く速度も、ゆっくりゆっくり…。

体への負担をできるだけ軽くするよう自分なりに工夫して移動していました。

それが私にとっては軽い運動となり、体中へゆっくり血液を循環させるには良かったようです。

また、血圧が低い時の気分の悪さが自分で分かるようになってきていたので、メトリジンの服用も『飲まなきゃダメだ。』と感じた時だけ飲むようになりました。(常に携帯していました。)

 

バトントワリング部

中学生の頃は、あまり部活動というものに興味がなく、とりあえず何かの部活に所属しておこうという軽い気持ちでパソコン部に所属していました。

完全なる文化部です。

しかし、元々目立ちたがりで人前に立つことが好きという面も持っていた私は、高校に入り華やかなバトントワリング部に魅力を感じ、入部しました。

バトントワリング部といわれても、あまりイメージの湧く方は少ないかもしれませんが、新体操やバレエのように体を柔軟に動かし、鉄の棒(バトン)を操って踊るという、文化部と運動部の両方の面を持つ部活動でした。

踊っている先輩方を見ている分には、軽い運動と思っていたのですが、実際に部活をはじめてみるとジャンプしたり回転したり素早く移動したり、なかなか激しい運動でした。

普通にしていてもめまいのする時がある体だったのに、バトンを投げて自分自身も回転するという、自分の体に鞭を打つような練習の日々でしたが、先輩や顧問の先生にも私の病気のことは伝えていたので、時々休憩しながら部活を続け、気分が悪くなっても退部することはありませんでした。

どんなに体が辛くても、華やかな衣装を着て可憐に踊るバトントワリングという世界に魅力を感じていたので、諦めずに続けることができたのだと思います。

ただ、時々体力づくりのために、学校の外周を走るというメニューがあったのですが、それだけはどうしてもみんなと同じペースで走ることができず、ほぼ徒歩で参加させてもらい、その時は『どうして私はみんなみたいに普通に走れない体なんだろう…。』と気持ちが沈んでしまうこともありました。

工夫をすれば普通の生活を送れますが、全てがみんなと同じようにはいかないという部分は、起立性調節障害を乗り越える上で自分自身も理解しておかなくてはならないし、周りにも理解していただく必要があることだと思います。

 

短大進学

高校生活で軽く体を動かしたり、自分の体の扱い方も分かってきたりして、勉強にもとくに支障がでることはなく、学園内推薦で、第一希望の短大保育科へ進学することができました。

薬を飲まなくても大丈夫な日が増え、気持ちにも少し余裕ができ、バイトもはじめるようになりました。

スポーツジムの受付のバイトで、立っている時間が多かったですが、夕方からの勤務だったので体のエンジンもしっかりかかっており、時々座って行う事務作業もあってずっと立ちっぱなしという仕事ではなかったので、それなりに支障なく業務をこなすことができました。

短大生活の2年間は、体の調子が良かったです。

保育実習も何事もなく終えることができ、第一希望の私立幼稚園への就職が決まり、夢に向かって順調に進んでいました。

20歳の誕生日も迎え大人になったので、ついに起立性調節障害が治ったかなと安心していました。

 

幼稚園教諭になって

小さい頃からの夢を叶え、幼稚園教諭となった私は、子どもたちと過ごす毎日をとても楽しみにしていました。

でも、私の前に大きな壁が立ちはだかったのです😢

子どもたちの送迎をする園バスに乗る業務です。

今では園バスに同乗する先生も、安全上必ず座らないといけないことになっていますが、私が幼稚園教諭になった頃はまだ取り締まりが厳しくない時代で、就職した園では先生が最初から最後まで立って乗らないといけないことになっていました。

朝一の園バスは7:30発。研修で先輩先生に付き添ってもらいながら乗ったのですが、途中で血の気がひいてきて気分が悪くなってしまい(おそらく脳貧血)、とても1人で子どもたちの送迎をできる状態ではありませんでした😰

新人という立場でありながら、朝のバスは先輩の先生方に代わっていただき、帰りのバスだけ乗るという働き方をしていました。

迷惑をかけてしまい本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、園長先生をはじめ先生方みなさんが『仕方ないことだから。』と言ってくださり、優しさに支えられて仕事を続けることができました🥺

園バス以外にも、運動会シーズンは近くの大きなグラウンドを借りて練習するため、早朝(朝一の園バス出発より早い時間)に職員がグラウンドに集合して、石灰でライン引きをするという業務があったのですが、やはり途中で気分が悪くなってしまい、端で座り込み、情けなくて泣いたこともありました😢

短大時代は上手く体と付き合えていて治ったかと思った起立性調節障害でしたが、20代になってもやっぱり症状はあり、簡単には治らないことを思い知らされました。

 

転職

夢だった幼稚園教諭の仕事。子どもたちの成長を見守る仕事にとてもやりがいを感じ、大好きな仕事でしたが、それ以上に先生方に迷惑をかけてしまっているという申し訳なさが日に日に大きくなり、2年で退職することにしました。

もちろん園長先生は引き止めてくださり『やれる仕事をやってくれればいい。園にいてくれるだけでいいのよ。』と本当にありがたいお言葉をかけてくださりました。

でも、私の気持ちは変わることなく、年長クラスを受け持った年に卒園の子どもたちと一緒に園を去りました。

 

一般職に就いて

幼稚園を退職した後は座ってできる仕事を探し、輸入車ディーラーの受付の仕事に就きました。

始業時間も10:00〜と朝はゆっくりでき、体への負担も少ない仕事でしたが、今まで”対子ども”だったのが”対大人”になったことで、また別の苦労がありました。

それでも、自分が勉強したり努力すれば何とかなることばかりで、誰かに仕事を代わってもらうという迷惑はかけずに仕事ができたので、『私には事務作業が向いているんだ!』と自分に言い聞かせ、仕事をしていました。

その後、ディーラーの仕事は会社都合で退職することになり、紹介で輸入時計屋さんで仕事をすることになりました。

 

捨てきれなかった保育への思い

一般職に就いて、体はかなり楽でした。

しかし、本当に自分がやりたかった仕事はやはり保育の仕事で、もう一度どうしたら周りに迷惑をかけずに保育の仕事ができるか考えました。

色々考えたり調べた結果、私は1つの答えを見つけました。

『病気の子どもたちの保育がしたい。』

バスに乗ったり運動会の準備をしたりすることもないし、起立性調節障害を経験したからこそ、体調が悪い時の辛さが分かるから気持ちに寄り添えるのではないかと思ったのです。

そこから私は病児保育士の求人を探しました。

ただ、病児保育士の求人というのは数が少なく、あってもパート勤務ばかりで、正社員の病児保育求人にたどり着くまで約1年かかりました。

求人を見つけてからはすぐに応募し、無事に内定をいただくことができました。

 

病児保育士から医療保育士へ

病児保育士の業務は通常の保育とは違い、保護者が病院で診断書をもらってから登園してくるので、受け入れ開始時間も遅く、勤務開始は9:00だった為、朝は比較的ゆっくり準備することができ、私の体調は安定していました😌

保育内容も、熱があるなど体調の悪い子どもたちの保育なので、隔離室で静かな遊びをしたり、食事の介助をしたり寝かせ付けをしたり…大好きな子どもたちとじっくりかかわることができました。

時には熱で体調が優れず泣けてしまう子もいましたが、『体調が悪くて自分の思うようにできない(遊べない)と泣けちゃうよね。』と、体調が悪い時の私自身の気持ちと重ね、子どもの気持ちが痛いほど分かりました。

保育の仕事に戻ることができ、やりがいを感じていた時、総合病院のNICUで医療保育士として働けるという話が入ってきました。病児保育で病気の子どもたちとかかわる中で、もっと本格的に子どもの体や病気について学びたいと思い、NICUへ異動することを決めました。

 

起立性調節障害は過去のことに

NICUで医療保育士となり、医療の最前線で小さな命とかかわるという責任重大な業務を任されることになった私は、仕事をしながら毎日必死で勉強しました。

勤務は14:00〜23:00という昼過ぎからスタートの仕事でした。夜は遅かったものの、勤務後すぐに帰宅してお風呂に入り24:00に就寝し、翌朝8:00に起きても14:00の勤務開始までたっぷり時間があるので、本当に体は楽でした。

体が成長し循環器の調整が上手くいくようになったのもあるのか、この頃には起立性調節障害の症状は無くなりました。薬を持ち歩くことも無くなり、私にとって起立性調節障害は過去のことと思えるようになりました。

 

個人差はあるけどきっと良くなる

【前編】【後編】の2回の投稿に分けてお話しました起立性調節障害の体験談ですが、私の場合は15歳〜25歳ぐらいまでの約10年間辛い症状と付き合いました。

個人差があると思うので、もしかしたら1〜2年で良くなる方もみえるかもしれませんし、10年以上症状が続く方もみえるかもしれません。

でも、以前に比べて治療法や対処法も色々出てきているはずなので、いま起立性調節障害で辛い思いをされている方も、いつかきっと良くなると思います。

 

YUI
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起立性調節障害をもっと多くの方に知ってもらい、辛い時は無理をしなくても大丈夫な社会になることを心より願っています。

\参 考 書 籍/

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